イラク政府とクルド人が対立している理由をわかりやすく解説して下さい。



イラク政府とクルド人の対立がここ最近ニュースとして取り上げられています。
今回はこのニュースをわかりやすく解説したいと思います。



まず、クルド人という民族はそもそもどういう民族なのでしょうか?

クルド人は第一次世界大戦が起きるまでは、オスマン帝国という国の中で住んでいました。
クルディスタントと呼ばれる先住民族です。

今現在はイラン、イラク、シリア、トルコ、アルメニアという国がありますが、昔はオスマン帝国という国があったのですね。

第一次世界大戦後、このオスマン帝国が滅んで今のようなイラクやトルコといった国々が独立して自分達の国を作り国境を引きます。
(実はこの話は詳しく話しますとイギリスやらフランスやらロシアやらアラブ人やらが出て来て、めちゃくちゃ複雑なので省略します。)

クルド人はというともともとオスマン帝国という一つの国の中にいたのですが、それぞれの国が独立して勝手に国境を引いたものですからバラバラに引き裂かれてしまうのです。



この時点でクルド人達は自分の国というものがなくなってしまいました。

クルド人はよく少数民族と言われます。

実はクルド人の人口は全体で3000万人ほどいると言われているのですが、イラクやシリア、トルコといった国単位で見ますと人口は少なく見えてしまい、それが少数民族と言われるゆえんです。

時代は進み、1980年に変わります。
1980年にイラクのサダム・フセイン大統領が就任して直ぐにイラン・イラク戦争が起こります。

この時、イラクに住んでいたクルド人はイラン側に付きます。そして戦争が終結した1988年イラン側についたクルド人はイラク軍によって弾圧され毒ガスなどによって多数殺されました。

またまた時代が進みます。
1991年、アメリカとイラクの湾岸戦争が勃発しました。

アメリカはクルド人に「クルドの独立を支援するからイラクを倒そうぜ!」とクルド人をイラク軍と戦わせます。しかしクルド人はイラク軍によって壊滅されてしまいます。クルド人に大量の難民が出ます。

2003年になりますと大量破壊兵器があるとの事でアメリカとイラクで今度はイラク戦争が起こります。これによりようやくイラクが倒れフセイン政権が倒されます。

イラクに住んでいたクルド人は今までイラクと戦って来たという事でイラクの一部の中に『クルド人自治区』というクルド人の住める場所が認められました。



ようやく安住の地をクルド人が手に入れられた・・というわけではありません。ここからイラク政府とクルド人が対立している話になります。

イラクはフセイン政権は倒れましたが、それに変わって新しく新イラク政府が出来上がりました。
クルド人はクルド人で『自治区』ではなくクルディスタントという独立国を作りたいのでした。

そんな折、新しい敵が現れます。
みなさんもご存知のISIS(イスラム国)です。

ISISは豊富な資金源と兵力で次々に勢力を広げていきイラクやクルド人自治区にも攻撃をし始めました。

このままではISISに占領されてしまう・・。
イラク政府とクルド人は戦います。

両者はアメリカからの支援を受けていましたが、イラク政府軍はなんとISISに負けて逃げてしまいます。イラク政府軍弱し・・・。

ですがクルド人は自分達の自治区を守るため、そして今後の独立の資金源となるキルクークの近郊にある大油田地帯を守るために戦います。

この大油田地帯はイラク全体の石油輸出量の半分を占めるという超重要な油田です。

クルド人自治区というのは、この油田によって凄く栄えており、大きなビル群がたくさんあります。
(第二のドバイとも呼ばれたりします。)

これらをISISに取られまいと戦い、そしてついにやっつけてしまうわけです。

さあ、クルド人はこの守った油田を実質管理するようになり、敵がいなくなった今こそクルド人の夢、クルディスタントという独立国を作るぞー!となったのです。

はい、イラク政府にとっては重要な油田が取られてしまいますし自分達の国の一部がクルド人のものとなってしまいます。

クルド人は独立したい!
イラク政府はクルド人の独立はさせない!

と、こういう対立をイラク政府とクルド人はしているわけです。

今回はこのようなことがニュースとなっているのですね。

(今回はこれでもかなり端折りましたが、本当はもっともっと複雑な話が絡んで来ます。一冊の本になってしまうくらいです。中東というのは複雑なんですw)
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2017/11/01(水) | 宗教・戦争のお話 | トラックバック(0) | コメント(0)

バーミヤン遺跡の歴史と誰になぜ破壊されたのですか?わかりやすく解説して下さい



バーミヤン遺跡の大仏を復元をしようというシンポジウムが都内で開かれた事がニュースとなっています。
今回はこのニュースをわかりやすく解説したいと思います。



まずバーミヤン遺跡が何処にあるかを確認しましょう。バーミヤン遺跡はアフガニスタンの首都カブールから230キロほど行った山岳地帯にあります。

バーミヤンは『光り輝く土地』を意味していまして、この土地にはバーミヤン、フォーラーディー、カクラクという3つの谷があり、これらの地域を総称としてバーミヤン地域と呼んでいます。



バーミヤンの見どころは何と言っても石窟です。
石を削って作られた石窟寺院や大仏などですが、1世紀頃から石窟寺院が徐々に作られて行きました。

いつからこの地域で仏教が広まっていったかは不明ですが、5世紀から8世紀にかけては巨大な仏像が作られたり壁画が描かれて、バーミヤン地域は大いに繁栄して行きました。

現在残されている1番正確な情報と思われるものは630年頃に唐から来た僧が書き記した『大唐西域記』にこれら仏像の大きさなどが記してあります。

そんな歴史がある過去の遺産に2001年に悲劇が起こります。

高さ55メートルの大仏(男像)と38メートルの大仏(女像)2体が爆破されてしまうのです。これだけでなく、貴重な壁画なども破壊されてしまいます。

この破壊されてしまう映像はYouTubeなどにもありますので是非見て頂きたいのですが、本当に痛ましい出来事です。

破壊したのは旧タリバン勢力の指導者などです。

タリバンとは内戦によってパキスタンに逃れた難民、パシュトゥーン人(アフガン人)が、そこで厳格なイスラム教や武器の扱い方を学び2001年11月ごろまでアフガニスタンの聖戦の為に軍事活動をした人達です。

なぜ彼らは歴史的な仏像や壁面を破壊してしまったのでしょうか?

それにはイスラム教という宗教に関係があります。
イスラム教徒は偶像崇拝を禁止しています。

偶像とは石や土といったもので具体的な物質を表したものをいい、崇拝とはあがめ敬うことを言います。

私達日本人は、神社やお寺などに行った時に仏さんに手を合わせて拝みますよね。
イスラム教はこういう行為は禁止されているのです。

イスラム教の唯一の神はアッラーです。
アッラーはすべての物を作り出した神だと言われています。
仏でさえもアッラーが作り出したものとされていますから、もし仏さんに手を合わせてしまうとアッラーも仏も同格の地位という意味になってしまいます。

ですから祈りはアッラーだけに対して行われるものであり、偶像を崇拝する行為はアッラーをけがす行為になってしまうのです。

大昔に仏教だった地域がイスラム教圏になると、こういった仏像の大体は顔を削りとられてしまいます。
偶像崇拝を禁止してますから、顔だけを削ってしまい祈っても無駄だよーとしてしまうのです。

タリバンはイスラム原理主義者です。
イスラム原理主義者はイスラム法に基づいて国家や社会を統制すべきと主張する保守的な人々ですから、顔だけを削るだけでなく爆薬を使って像を徹底的に破壊したり、壁画を消してしまったのです。

また、自分達の宗教を世の中の人に主張するためでもありました。
このような理由で破壊をしてしまったのですね。

2003年、バーミヤン遺跡はユネスコ世界遺産登録に指定されました。
破壊された後にはどのようにして復元して行くかが非公開で話し合われていましたが、今回は公開しながら話し合いが行われました。

元の場所に復元するか、破壊された大仏をそのまま残して別の場所に作るかなど意見が分かれました。

今回はこのような事がニュースとなっているのですね。
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2017/10/02(月) | 宗教・戦争のお話 | トラックバック(0) | コメント(0)

日中国交正常化45周年に至るまでの歴史についてわかりやすく解説して下さい



日中国交正常化から45年が経ち、10年ぶりに日本と中国で祝電を交わした事がニュースとなっています。
今回はこのニュースをわかりやすく解説したいと思います。



日中国交正常化とは1972年9月に、日中共同声明を発表してから日本と中国が国交を結んだ事です。

そもそも、日中国交正常化に至るまでに何があったのでしょうか?
それは日中戦争です。

日中戦争は戦線布告が行われず徐々に広まって行った戦争でした。
発端は1931年に現在の中国の東北部にある満州鉄道で事件が起こったことから始まります。

もともと満州鉄道がある土地は清(シン(中国ができる前の国))のものでした。

しかし、1894年に日本と清で日清戦争が起こり、日本が勝利して清の土地を獲得します。ところが日本の進出を良く思わないロシアがフランスとドイツに働きかけて清を返還するよう迫りました。

これを『三国干渉』といいます。

日本はこの圧力によって返還しますが、ロシア見返りとして清の土地へ鉄道を敷く権利を得てしまいます。

これが満州鉄道です。

しかしながら日本とロシアの戦い、『日露戦争』が起こります。
これで日本が勝ち1905年にポーツマス条約を結んだ際に満州鉄道の一部間(旅順~長春の間)を日本の物としました。



一部間なのでこれを『南満州鉄道』と呼んでいます。この頃の清の国力は弱体していたので、日本とロシアが勝手な事をしていても抵抗できなかったんですね。

ですがその後、清では満州民族に支配されていた漢民族による『辛亥革命』が起こり、1912年に中華民国と言う国ができます。

中華民国はこのように言います。
「清の時代にロシアと日本で勝手にしてたけど、中華民国になったんだから日本は出て行きなさいよ」と、こういう話になったのです。

1930年頃の日本は震災や経済危機もあり、そして中華民国という国の成立などでこの土地を自分の国の物としたいと思っています。

そこで1931年に満州鉄道を日本の軍隊が秘密裏に爆破をします。

日本はこう主張します。
「中国の軍隊がやったんだ!これは戦線布告だな!」

こうして日本は軍事行動を開始して行って満州国を作りあげました。

満州国には清の時代だった皇帝、溥儀(ふぎ)をトップとして置きますが(溥儀は清を復活させたかった野望があり満州国をまず清の復活の足がかりにしようと考えていました。)事実上は日本軍が支配していました。

中国は満州国なんか認めない!と、国連に訴えてこれが認められますが、国連はあまり役に立たず、日本も国連を脱退してしまいます。

こうして中国と日本が睨み合った中、さらにこんな事件が起こります。
1937年7月に北京郊外にある盧溝橋(ろこうきょう)付近で発砲事件が起こるのです。

ここは現在でも日本軍が発砲したのか、中国軍が発砲したのか論争が起こっていますが、銃の発砲が起こるのです。

とにかくこれがきっかけとなり日本と中国の戦争、日中戦争が始まって行きました。(戦前は日華事変とも呼ばれたりしていました。)



この日中戦争からさらに1939年には第二次大戦も始まってしまい、沢山の犠牲者が出たのです。

第二次大戦後、それぞれの国はもう国同士で争わないように条約を結んだりしました。

日中共同声明もその一つです。

1972年9月、時の田中角栄首相が中国から招待され、毛沢東首席をはじめ周恩来総理と会い、日本は過去に行なった重大な過ちを認め、これからは仲良くしましょうという約束をしました。

これが日中共同声明であり、ここから中国と日本の国交正常化に繋がったのです。

ただ、現在になっても日中共同声明や国交正常化をしたと言っても様々なわだかまりがあります。

やはりいくら国同士が仲良くした所で、戦争によって酷いことをされた歴史や、殺された親族などの個人の憎しみはなかなか消えるものではないですよね?

また過去の歴史が湾曲してしまったりといった事も原因となり、それらが合わさって今日の中国と日本の関係性に繋がっています。

10年ぶりに祝電を交わしたのも一時期、中国と日本の関係が悪くなってしまったからなのですが、ここ最近では以前よりは比較的に関係が改善されました。

そのような状況下で10年ぶりに日中国交正常化への祝電をしたのですね。
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2017/09/30(土) | 宗教・戦争のお話 | トラックバック(0) | コメント(0)

ミャンマーのロヒンギャ族問題とはどのような事かわかりやすく解説して下さい



ミャンマーのラカイン州に住む少数民族ロヒンギャ族が弾圧されている事がニュースとなっています。
今回はこのニュースをわかりやすく解説したいと思います。



まずはどこで起こっているのか地図を見て見ましょう。↓


今回このニュースの場所となっているのがミャンマーにあるラカイン州と呼ばれている場所です。
ラカイン州のすぐ上にはバングラデシュという国もありますね。

ミャンマーは19世紀後半にイギリスと3回の戦争により植民地となっていました。
それから第二次大戦中に日本がイギリスから解放したりしましたが、日本が劣勢になり再びイギリス領となったりしました。

そしてついに独立を果たすのですが、ミャンマー国内で社会主義に対して民主化運動が起こったりとミャンマーという国事態は非常にややこしい歴史を辿って来ています。

今のロヒンギャ族の問題もこのような歴史によって引き起こされているのです。

ロヒンギャ族はもともとバングラデシュに住んでいましたがアラカン州に少しずつ移民してきました。
現在は推定で130万人以上といると言われています。

一方、アラカン州にはアラカン族という民族が住んでいました。
ロヒンギャ族はイスラム教を信仰しており、アラカン族は仏教を信仰していましたが、二つの民族は最初は争う事はありませんでした。

しかしイギリスが植民地化した事によって自体は変わります。

ミャンマーという国は全体で仏教徒が7割ほどいますがイギリスの植民地化にもちろん不満を持っていました。

イギリスはアラカン族が耕していた農地をロヒンギャ族の労働移民にあてがってしまいます。ロヒンギャ族は仕事があるので次々に移り住んで来るようになりました。
これによってイスラム教であるロヒンギャ族と仏教徒のアラカン族が対立してしまいます。

そして第二次大戦になり、イギリスがイスラム教であるロヒンギャ族を構成した軍隊を作り、日本は仏教徒であるアラカン族とイギリスの植民地に反対するミャンマー仏教徒達の軍隊を構成して戦いました。

一度戦ってしまえばもう戻れません。

その後1948年にミャンマーは独立を果たします。
イギリスから解放されたので必然とロヒンギャ族はミャンマーに居づらいですよね。
しかし社会主義を掲げたウー・ヌが首相となり特別行政地区を与えられ、そこで暮らします。

これで安心して暮らせる・・というわけにはいきませんでした。

1962年クーデターが起こりウー・ヌ政権が崩壊します。そして新しくネ・ウィン将軍が政権を取り「ビルマ式社会主義」を推し進めます。
(ビルマはミャンマーの旧名称です。ミャンマーという名称については今も論争があります。)

ビルマ式社会主義というのは経済の実権をビルマ人(今ミャンマーにいる7割を占める(仏教徒)人)の手に取り戻すため、外資企業や外国人を追放し、経済の国有化(外国の会社などは自分の国のものとしてしまう等)とするものです。

これによってロヒンギャ族は宗教も違うしバングラデシュから来たので外国人とみられてしまい、1982年に作られた『国籍法』によって国籍・権利が剥奪されてしまうのです。

現に今もですがビルマ人はロヒンギャ族の事を『ベンガル(バングラデシュやインドの西ベンガル州を指します)人』と呼んだりしています。

ミャンマーは社会主義となってしまいますが、1988年に民主化運動が起こりロヒンギャ族もこれに加担します。民主化運動を唱えるアウンサンスーチーさんが出て来るのもこの時代ですね。



しかしネ・ウィン将軍はこれによって辞任したのですが、民主化になったわけではありませんでした。
ミャンマー国軍がネ・ウィン将軍に変わって引き継いだような感じになってしまったのです。

ミャンマーは軍人がとても多い国です。
2015年にアウンサンスーチー率いる野党・国民民主連盟が圧勝して民主的な一歩を踏み出したのですが、軍人が重要な役職に就いていたりしますし、憲法も軍人の力を温存されるように作られています。

ですから民主化に一歩踏み出したと言っても軍が力を握っていて、ビルマ人もロヒンギャ族を差別したままとなっています。

そして現在も国籍や権利がない状態となっていて、弾圧・迫害を受けて難民となりバングラデシュなどにある難民キャンプに逃げています。

ただバングラデシュやタイを始め各国はロヒンギャ族の受け入れにあまり前向きではありません。

これが今回のニュースですね。
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2017/09/04(月) | 宗教・戦争のお話 | トラックバック(0) | コメント(0)

(世界難民の日)世界に難民の数はどのくらい?日本の難民の受け入れをわかりやすく解説して下さい。



6月20日は『世界難民の日』です。今回は世界難民の日が作られた経緯や難民の数、日本の難民への受け入れなどをわかりやすく解説したいと思います。



『世界難民の日』は2000年12月4日に国連によって作られた日です。

難民の日が作られたもともとの発端はアフリカに関係があります。
アフリカの中にあるいろいろな国で、紛争や民族対立や宗教対立などで国がぐちゃぐちゃになってしまっていたのを、それぞれの国を尊重し、平和的に解決していこうとアフリカの首脳達が集まって、『アフリカ統一機構』を作り上げました。

けれどアフリカだけでなく、難民は中東など世界に沢山いるということで、国連が深刻な問題と受け止めて、『世界難民の日』が作られたのです。

世界では様々な戦争や紛争が起こっています。
大きなものからメディアには発表されていないようなものまであり、はっきり言いますと実はどのくらいあるか正確にわかっていません。

今回は一部だけご紹介します。



シリア内戦
 2011年アラブの春という革命が起こりました。これは独裁政権を倒して民主化(民主主義のことですね。)をする革命でした。

チュニジアで最初に起こったのですが、他の国々にも革命が広がり、シリア国内でも起こりました。

シリアではイスラム教のアラウィー派に属するアサド大統領がおり、政治家も国の政策の仕方もアラウィー派で占められていたため、大多数がスンニ派に属する国民の不満が爆発し、2013年にアサド大統領が率いる政府軍と国民が率いる反政府軍で内戦が勃発しました。



南スーダン

自衛隊が平和維持活動をしていた事でよくメディアに登場していた南スーダンですがこの国はスーダンという国が宗教によって対立した為、南スーダンという新しい国を作り独立しました。

しかしせっかく独立したのに、今度は内部でまた紛争が起こりました。もともと独立の為に一緒に戦っていたキール大統領とマシャール前副大統領の二人が仲違いをして、この二人をメインに2013年7月に今度は民族紛争が起こってしまいました。

これ以外にもフィリピン、イエメン、ソマリアといった様に数えればキリがないくらいに世界では戦争や紛争が起こっています。

戦争や紛争で犠牲になるのが民間人です。民間人は自分の国が戦場になってしまったり、家族が差別や危険から逃れる為に難民となるのです。

難民の数は2016年では6560万人にものぼりました。この半分は子供と言われており、大人だけでなく子供達も救いを求めているのです。

日本では1981年に難民条約(難民を受け入れる条約)に加入し、難民を受け入れています。ただし日本ではあまり難民を受け入れていないのが実情です。

この理由はいろいろとあるのですが、異なる宗教や文化を持った人達を一度受け入れてしまった場合、現実的な対応が非常に難しくなるからです。

例えば、受け入れた難民はどこへ住んで貰うかという事や食べ物、宗教にも配慮しなくてはいけません。

戦火から逃れて来た難民はプレハブに泊まる事になると思います。最初は快適と思うかもしれませんが、やがては不満が溜まり、何かしらの対応が必要になります。

難民に仕事を与えなくてはなりませんし、援助する費用もかかります。中には難民と偽って別の目的の為に日本へ来るかもしれません。現にISIS(過激派組織)は難民に偽装して、兵士を送り込んだと声明を出しています。

難民を受け入れるという事は非常に大変なことなのです。

日本での2016年の難民認定申請者は10901人いましたが、難民認定した人はたった28人でした。

難民と認定するにも慎重にならざるを得ない為にこのように少ないのです。

今回は難民についてのニュースでした。
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2017/06/23(金) | 宗教・戦争のお話 | トラックバック(0) | コメント(0)

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