北方領土の話が続きます。
前回は、太平洋戦争(第二次世界大戦)が終わり、日本が降伏してもロシアが北方領土へ侵攻してきた所で終わりましたね。

1945年、太平洋戦争に負けるまでは北方領土に日本人が約1万6千人ほど住んでいました。
また、日露戦争によって獲得した南樺太島には約40万人ほどの日本人が住んでいました。
しかし、太平洋戦争の終わりごろ(1945年8月8日)にロシアは宣戦布告し、日本が支配していた満州という国を開放しました。
本来であれば、「日ソ中立条約」という日本と結んだ平和条約によって1946年4月25日までは、ロシアは日本の領土に侵攻することはできないはずでした。
日本はロシアの侵攻に対して戦おうとしますが、もう戦う余力なんて残っていません。
なんせ原子爆弾が落とされた2日後ですからね。
そして、終戦を迎えるわけですが、ロシアの侵攻は止まりません。
日本としてはなんとかしたいですが、日本がもうどこかの国を攻撃したりしないように、アメリカの監視下におかれてしまっています。
どうすることもできません。
ロシアは合法的に自分の国としたのです。

さて、その後1951年に、「サンフランシスコ講和条約」というものが開かれました。
これは、日本が戦前に支配していた国を放棄しますという約束をしたものです。
台湾や、朝鮮半島、そして本題の北方領土や千島列島、南樺太島について、日本が説明していきました。
ここで、問題が起こるのです。
南樺太はに日露戦争によって、獲得した領土ですから手放すのは仕方ありません。
しかし、千島列島に関してははっきりとしないままの主張をしてしまうのです。
本来、千島列島は、日本がロシアと戦争をして獲得した領土ではありません。
樺太千島交換条約という平和的な条約を結んで獲得した領土です。ですからこれを取り上げられるのはおかしなことです。
ですが、日本側で千島列島に歯舞、色丹は含まれないと主張する人物がいたり、千島列島は国後、択捉島も含みますという主張をする人がいました。
おまけに、千島列島にも御幣が生じました。当時は現在のような「北方領土」という言葉は使わずに、「南千島列島」とよばれていました。
しかし、千島列島と言う発言でも南千島列島も一緒くたのような存在になってしまったのです。
結局、千島列島ってどこからどこまでなの?南千島列島も含むの?
と、よくわからないことになりサンフランシスコ講和条約で日本は北方領土や千島列島も放棄するということになってしまいました。

このサンフランシスコ講和条約の5年後に、外務省だった下田武三(しもだたけぞう)と言う人が、初めて「北方領土」という言葉を使いました。
「北方領土は、日本のものです」と主張しだしたのです。
なんだかややこしいですが、早い話が「ややこしいがために放棄に至ってしまった。」ということなんです。
さあ、日本側の主張はこうです。
「日本は「日ソ中立条約」を守っていたのに、勝手に侵攻して領土を奪ったわけだからロシアは早く返しなさい!」ということです。
ロシアはこういう主張です。
「確かに「日ソ中立条約」は破る形にはなるが、宣戦布告してるし、それが戦争というもの。おまけに日本はサンフランシスコ講和条約で放棄しているじゃないか。」ということです。
どちらもわかりそうでわからない主張です。
これが論争として今でも続いているわけですね。
次回に続きます。
▼大佐のブログが本になりました。

自己紹介
ブログ管理人:大佐

趣味は家の掃除からバイクまで幅広く。 当ブログの更新や若い方中心にニュースをわかりやすく解説しています。 広告主募集中!▶︎こちらからご連絡をお願い致します。
2016/12/21(水) | 国際事情のお話 | トラックバック(0) | コメント(0)