難波宮跡の発掘現場からノモハン事件に関する旧日本軍の機密資料が見つかりました。
今回はこちらのニュースとノモハン事件とは何かを分かりやすく解説して行きたいと思います。
難波宮跡(なにわのみやあと)は現在の大阪市中央区にあります。
大阪には難波(なんば)という地域がありますね。
難波は「なにわ」とも読んだりしますし、別の漢字を使用して浪速「なにわ」と読んだりもします。
これには諸説あります。
●浪速・・かつては川や水路が張り巡らされていて、流れが早かったので浪速と呼ばれた説
●ナ庭・・昔は魚を「ナ」とよんでいて、これに「庭(広い場所を指す)をくっ付けて「ナ庭」と呼ばれた説
●「なみはや」が「なにわ」となまり「なんば」となった説
この様な諸説の中、難波と浪速の二つの漢字があるのは1960年に発見された「難波宮跡(なにわのみやあと)」がやはり有力ではないでしょうか。
難波宮は飛鳥時代〜奈良時代にかけまして、一時的に都をこちらに移した時に作られた宮殿ですね。
(まだ詳しい調査をしている最中です。)
そしてここはかつて旧日本陸軍の第八歩兵連隊の敷地でもありました。
この難波宮跡地を調査していた所、ノモハン事件に関する旧日本軍の機密資料が見つかったのです。
ノモハン事件とは一体何でしょうか?
ノモハン事件は日本とソ連(今のロシア)が衝突した事件です。
地図を見ますとロシアと中国の間にモンゴルがありますね。
かつては大陸のほとんどをモンゴル帝国と言って、チンギスハン(チンギスカーンなどとも言ったりします)が支配をしていました。
その後、チンギスハンの孫であるフビライハンが変わり、モンゴル帝国を「元」と改めました。(元に改めたのは中国の行政を採用して、中国色を強めたからですね。)
元は今の北京にあたる場所に「大都」と言う首都を置いて急速に支配しました。
元の最盛期はなんと世界の4分の1を支配しました。
(日本にも蒙古襲来と言って二度に渡り攻撃したのが有名です。暴風雨(いわゆる神風)で退却したと言われています。)
フビライハンが死去すると各地で権力争いが起こり、政情が非常に不安定になり衰退して行きます。
そして大都は明王朝を建国した朱 元璋(しゅげんしょう(明の初代皇帝))によって滅びます。
元(モンゴル民族)は今のモンゴルがある北へ引き下がり、「北元(ほくげん)」として存続し、大都があった場所は明の首都となり、やがて非常に有名な「紫禁城(しきんじょう)」が建てられたのです。
では明が滅び、少し時代が進みます。
紫禁城と言えばラストエンペラー、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)です。
彼は中国最後の王朝、「清朝」の皇帝です。
溥儀が皇帝となった後、1912年に清朝が滅ぶ重大な事件が起きました。
「辛亥革命(しんがいかくめい)」です。
辛亥革命は明朝の時代を取り戻そうと言う事で起こった革命で、これにより清は滅びます。
革命後には新しく「中華民権」が設立されて、辛亥革命の指導者である「孫文」が臨時の大統領となりました。
溥儀はしばらくは紫禁城に住むことが許されます。しかしやがて軍事クーデターによって紫禁城を追い出されイギリスとオランダに保護を求めますが、内政干渉を懸念した両国に拒否されてしまいます。
ここで溥儀を受け入れたのが北京にあった日本公使館でした。
溥儀はなんとか清王朝を復活させようと日本公使館で悩みます。
その後、さらにまた大事件が起きます。
1931年に起こった「満州事変」ですね。
発端は満州にある満州鉄道を爆破した事から始まります。
遼東半島(りょうとうはんとう)という関東州にいた日本の陸軍(関東軍といいます。)が、これは中国がやったとでっちあげ、これを口実に満洲全土を占領し「満洲国」を作りあげたのです。
地図を見てみますと、満洲国の上にソ連(ロシア)がありますね。
ここの境界線はもともとモンゴルとソ連、満洲でボンヤリと境界線が引かれていました。
しかし、日本が介入して急に境界線を引いてしまったので、それぞれの国が睨み合った形になってしまったのです。
国境付近ではパラパラと争いが起こっていましたが、やがて大きな軍事衝突が起こってしまい、ソ連と日本の仲は急速に悪くなります。
軍事衝突の発端はソ連のパトロール部隊がハルハ川を越えて東側にやって来たからと言われています。
当時、日本はハルハ川を満洲国の境界線と主張していましたが、ソ連・モンゴルはハルハ川より20kmほど東を国境線だと主張していたのです。
これによって満州国軍(関東軍)は、ソ連軍が領土に侵入してきたと判断し、交戦状態になってしまったわけです。
日本は航空機や爆撃機で攻撃して制空権を奪います。しかし、地上戦では日本にない装甲車や大砲などをソ連が使用して、関東軍ばボロ負けします。
関東軍の死者は2万人ほどと言われ、それでも関東軍は暴走して戦いをやめませんでした。
そんな状況を日本の大本営(陸軍の本部ですね。)が「もう兵の無駄遣いだ。ヤメロ。」と言って戦いが終わり、停戦協定が結ばれました。
結局、関東軍が暴走していたずらに死者を出したと言うのが今の考察です。
これがノモハン事件です。
今回見つかった資料にはノモンハン事件の戦法や考察、「『ノモンハン』血ノ教訓」の記載などがあり、これを今後の旧日本軍の教訓にしたと見られています。
これが今回のニュースですね。
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2019/08/14(水) | 宗教・戦争のお話 | トラックバック(0) | コメント(0)