ミッドウェー海戦で沈んだ旧日本海軍の航空母艦「赤城」が20日、北太平洋の海底で見つかったとアメリカの財団が発表しました。
今回はこのニュースをわかりやすく解説していきたいと思います。
空母赤城(あかぎ)は1927年に竣工(工事が完了すること)されました。
空母というのは、海の上に浮かぶ飛行場の様な船です。
自国の陸地から飛行機で敵国まで飛ぶと、燃料切れで墜落してしまうので、ある程度の距離まで空母で運んで、そこから飛行機で出撃して攻撃するわけですね。
1927年に竣工された赤城は問題点があったため1935年から3年ほどかけて改良されました。
赤城は基準排水量(船の重量を表す数値で満載状態から燃料などを引いた数値をいいます。)3万6500トン、全長260.7メートルありました。
航空機は最大で91機搭載できる、当時は世界最大の空母でした。初めて戦争で赤城が出航したのは1941年の大平洋戦争、真珠湾(ハワイ)攻撃になります。
大平洋戦争が始まる前夜、日本とアメリカは戦争を回避するための交渉を行っていました。
しかし、交渉は決裂してしまいました。
この時、既に日本の艦隊は真珠湾に向けて出航していました。真珠湾付近までは10日ほどかかりますので、戦争をするかどうかわからなかった為、とりあえずは艦隊を進めていたのです。
開戦したらそのまま攻撃し、和解したら引き返す予定でした。
日本は6隻の航空母艦が参加しました。「加賀」「蒼龍(そうりゅう)」「飛龍(ひりゅう)」「瑞鶴(ずいかく)」「翔鶴(しょうかく)」そして「赤城」です。
日本海軍のほぼ全ての総力が真珠湾に向けて進んでいたのです。
そして電報が届けられました。
「ニイタカヤマノボレ1208」
真珠湾攻撃の命令暗号文です。
日本ではまだアメリカへ戦線布告をしていませんでした。これは人為的なミスや伝達ミス、もしくはわざとアメリカが戦線布告されていない事にした(?)と、真相はよくわかりません。
これが今も海外から日本の"だまし討ち"、"奇襲攻撃"と言われてゆえんです。
第一航空艦隊に所属していた赤城は、第一次攻撃部隊として攻撃に加わります。
そして1941年12月8日午前3時(現地時間では7日の午前8時)に真珠湾に対する日本軍の空襲が開始されました。
ここから日本とアメリカ率いる連合国との長い戦いが始まり、多大な犠牲者がでました。
赤城の最後は真珠湾攻撃から約半年後の「ミッドウェー海戦」です。
ミッドウェー島を占領する為、日本の連合艦隊が総力をあげて出航しました。
この時、空母は赤城を入れて4隻。
しかしながらミッドウェー作戦は既にアメリカが通信を傍受し、万全の体制で待ち受けていたのです。
日本の連合艦隊は次々と攻撃を受けます。
そして1942年6月5日(時間不明)、空母エンタープライズの艦載機による急降下爆撃を受け、大型爆弾4発が赤城の飛行甲板に命中し、大火災を起こして沈没してしまったのです。
ミッドウェー海戦は4日間にわたり、日本人は3057人、米国人307人が亡くなりました。
あれから77年。
赤城はハワイの真珠湾からおよそ2000キロ北西に位置する太平洋中部で深さ5280メートルの海底に沈んでいた事がわかりました。
これが今回のニュースですね。
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2019/10/28(月) | 宗教・戦争のお話 | トラックバック(0) | コメント(0)